BIOGRAPHY CHORNICLE FAMILY TREE
PYE DAYS 1964〜1971
 レイ(Vo)とデイヴ(G)のデイヴィス兄弟と、ふたりの学友ピート・クエイフ(B)は、初め「レイヴンズ」としてロンドンで活動を開始。オーディションで選んだミック・エイヴォリー(Dr)を加えてキンクスと改名し、1963年にパイ・レコードと契約。翌年リトル・リチャードの「LONG TALL SALLY」でデビューする。しかし、このシングルは全く売れず、続くセカンド・シングル「YOU STILL WANT ME」に至っては127枚しか売れなかったという。
 64年、ディストーションの効いたギターリフが当時としては斬新なサード・シングル「YOU REALLY GOT ME」がイギリスチャートの1位を獲得すると、勢いに乗ったバンドはその後も「キンキー・サウンド」と呼ばれる独特の荒削りなサウンドで「ALL DAY AND ALL OF THE NIGHT」(2位)「TIRED OF WAITING FOR YOU」(1位)とヒットを連発しトップ・グループとなる。

 ところが、ソングライターであるレイ・デイヴィスは、1966年頃から作風にシニカルな視点を取り入れはじめ、バンドも初期のサウンドを捨てて「トラジ・コッミック(悲喜劇)」調といわれるフォーク・ロック・タッチの曲を演奏するようになる。そして、この頃からチャート上でのキンクスの活躍は下り坂となって行く。
 グループは1965年の初めてのアメリカ・ツアー中に、予定された出演を拒否したり、TV番組の中で司会者に平手打ちを食わせたりといった「プロにあるまじき行為」のために、アメリカのミュージシャンズ・ユニオンから3年間のプロモーションを禁止されるという事態を招いており、69年にこの措置が解除されるまで、レイ・デイヴィスはイギリス寄りの音作りを余儀なくされた。

 こうした状況の中、この純英国的な方向を突き詰めはじめたキンクスは、66年11月、アルバム「FACE TO FACE」を発表。そこからのシングル「SUNNY AFTERNOON」を久々の全英1位に送りこむことに成功する。
 67年、アルバム「SOMETHING ELSE BY THE KINKS」からのシングルカット「道化師の死(DETH OF THE CLOWN)」(3位)、「WATERLOO SUNSET」(2位)を放ち、この路線を定着させると、今度はシングルの時代に見切りをつけたかのように、アルバム中心の活動に没入していく。
 68年には平和な田園風景をほのぼのとした調子で綴った「THE VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY」を、69年にはオーストラリアへ移住しようとする一家とそれを取り巻く人々の1日をイギリス社会への風刺を交えながら歌った「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡(ARTHUR OR THE DECLINE AND FALL OF THE BRITISH EMPIER)」を、そして、70年にはロック・ビジネス界に入った若者達の夢と現実を歌った「ローラ対パワーマン、マネーゴーランド組第一回戦(LOLA VERSUS POWERMAN AND MONEYGOROUND PART 1)」を、というように一枚のアルバムにストーリー性を持たせた作品を次々に発表。セールス的には成功しなかったものの、ロック界に特異な足跡を残す。

 グループ内では、つとに有名なデイヴィス兄弟の不仲、デイヴ・デイヴィスとミック・エイヴォリーの対立、ピート・クエイフの脱退とそれに代わるジョン・ダルトンの加入など諸々の問題を抱えながら、キンクスは1971年発表のアルバム「PERCY」を最後にパイ・レコードを離れることになる。
RCA DAYS 1971〜1975
 従来の4ピースにキーボードのジョン・ゴスリングを加入させ、1971年RCAレコードと契約を結んだキンクスは、これまでのイギリス色から一転、カントリー・フレーバーに溢れたアメリカ寄りのアルバム「MUSWELL HILLBILLIES」を発表する。ホーン・セクションに「マイク・コットン・サウンド」のバックアップを得て、これまで以上に厚みを増したサウンドは、一定の評価を得るものの、大きなセールスに結びつくには至らなかった。
 1973年、カーネギー・ホールでのライブ録音を含む「この世はすべてショー・ビジネス(EVERYBODY'S IN SHOW-BIZ)」を発表後は、67年のアルバム「THE VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY」を下敷きとしたロック・オペラ「PRESERVATION ACT1」「PRESERVATION ACT2」や、テレビドラマのためのサウンドトラック「ソープ・オペラ(石鹸劇場)〜連続メロドラマ“虹いろの夢”(SOAP OPERA)」、学校をテーマにしたロック・オペラの「不良少年のメロディー(SCHOOLBOYS IN DISGRACE)」などのストーリー性に富んだ偏執狂的な力作・大作を次々に製作。ホーンに加えて女性コーラス隊までをサブ・メンバーとして加入させ、ステージではメンバーがそれぞれアルバムの登場人物に扮した、学芸会ノリのショーを繰り広げるなど、独自の路線を頑ななまでに貫いた。
 キンクスのこのようなパフォーマンスは、究極のカルト・バンドとして一部に根強いマニアを獲得するものの、商業的に成功を収めることは、RCAを離れるまでついに無く、「メンバーは洗剤を売って生計を立てている」などと噂されるまでになっていた。
ALISTA DAYS 1977〜1985
 RCAを離れアリスタと契約したキンクスは、ブラスや女声コーラス加えたそれまでの大所帯から、シンプルな5ピースへと編成をスリム化し、ロックン・ロール路線へ回帰すると共に、ライブバンドへの転身を図った。
 こうした戦略の成功と、若いパンク世代からの「ゴッド・ファーザー・オブ・パンクス」としてのリスペクト、更にはヴァン・ヘイレンによる「You Really Got Me」のアメリカでのリバイバル・ヒットなどにより、キンクスは一躍コンテンポラリーな存在として再注目を集め始める。

 1977年に発表したアリスタからの第1弾アルバム「SLEEPWALKER」が全米21位を獲得することに成功すると、バンドはその後もアルバム「歪んだ映像(MISFITS)」を同40位に、「LOW BUDGET」を同11位に送り込み、一方でスタジアム級のコンサート活動を続けながら、アメリカ市場を席巻するバンドとしてロック・シーンに返り咲いた。
 何度かのメンバーチェンジを経た後に、ベーシストとキーボードの位置にジム・ロッドフォードとイアン・ギボンズが定着すると、80年にはこの時期のステージ活動の集大成的ライブ・アルバム「ONE FOR THE ROAD」(14位)を発表して、ライブバンドとしての評価も決定的なものとした。

 プリテンダーズのクリッシー・ハインドとレイの急接近など、プライベートでの充実もあり、キンクスは80年代に入ってからも、81年にはアルバム「GIVE THE PEOPLE WHAT THEY WANT」を発表(全米15位)、翌年には初の来日公演、さらに83年発表のアルバム「夜なき街角(STATE OF CONFUSION)」(全米12位)からは、アメリカで「LOLA」以来13年振り、イギリスでも「SUPERSONIC ROCKET SHIP」以来11年振りとなるシングルヒット「COME DANCING」(全米6位、全英12位)を生み出したりしながら、順調な活動を続けた。

 しかし、バンドのこうした勢いも、84年のレイとクリッシーとの別離以降、急速な失速を見せ始める。
 同年のレイ制作の映画「RETURN TO WATERLOO」のサントラへのデイヴ・デイヴィスの不参加や、アリスタ最後のアルバム「WORD OF MOUTH」レコーディング中に起きたミック・エイヴォリーの脱退など、キンクスは内部に様々な軋轢を孕みつつ、新しい段階に入っていった。
LONDON & CBS DAYS 1986〜
 ボブ・ヘンリットを新しいドラマーに据えたキンクスは、ほぼ一年間に亘るレコード会社探しの末にMCA/ロンドンと契約を交わし、アルバム「THINK VISUAL」を発表する。
 この前後の期間、レイはテレビ用に製作された映画「RETURN TO WATERLOO」で監督としてのデビューを果たし、またジュリアン・テンプルの映画「ビギナース(ABSOLUTE BEGINNERS)」に主人公の父親役で出演するなど、演劇への盛んな接近を見せた。

 ヒットからは見放されていたものの、バンドは常にコンサート・ツアーを続け、1988年にはライブ・アルバム「THE ROAD」を発表し、衰えを知らないライブ・バンドとしての存在感をアピールした。また、続く89年にはイギリス回帰とも取れるアルバム「UK JIVE」をリリースして音楽面での好調振りも示した。
 1990年1月、ザ・フーと共に「ロックの殿堂(ROCK AND ROLL HALL OF FAME)」入りを果たしたキンクスは、同年新たにコロンビアと契約を交わし、ミニ・アルバム「DID YA」を発表。93年には70分を超える大作「PHOBIA」を発表し、日本を含む世界的なツアーにも積極的に取り組むが、アリスタ時代のような爆発的な人気を取り戻すには至らなかった。

 バンドは1994年に自主制作的なライブ・アルバム「TO THE BONE」をリリースした後、現在に至るまで実質上の活動停止状態に入っている。

 なお、西暦2000年以降も、オリジナルメンバーが全員生存している稀有な60年代ロック・レジェンドとして、常に初期メンバーでの再結成が噂される存在であったが、初代ベーシストのピート・クェイフが、2010年6月23日腎不全により死去したため、この再始動はついに実現せずに終わった。